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10.すでにあるもの ずっとあったもの
![](https://kisouan.work/magazine/wp-content/uploads/2023/07/010.png)
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前話で、欠乏感と現実化のカラクリがわかっても、なかなか「欠乏感」が消えないというお話をしましたが、先日、ようやく、このループから抜けることができた気づきがありました。今回は、そのお話をしたいと思います。
至福感が消えたこと
前話でもお話したように、私は長年、少女時代のあの至福感覚を追い求めていました。多少、極論ではありますが、あの感覚を再び呼び覚ましたくて、私の半生は費やされたようなところがあります。
娘時代の五、六年に渡って感じていたその多幸感によって、私の人生は一変しましたし、多感で、ある意味たいへんだった思春期は、それ によって守られていたのは事実です。
しかし、それがあまりにも鮮烈に幸せで、キラキラ✨した経験であったために、私は、のちに、深くその体験に囚われてしまい、二十歳を過ぎたころからは、それがまるで無くなったかのように感じ、同じものを求めずにはいられない気持ちになっていました。
いつもお話していますが、それを求める中で、副産物的に夢見やシンボリズムやタロットと出会い、それは、私に豊かさや愉しさを与えてくれはしましたが、私は、尚も飽き足らず、「これじゃない、これじゃない」と、いつも「あの感覚」をどうすれば呼び戻せるのかを、「頭」で考え続けていました。
その過程だけで、1冊の本ができるほどの旅をした気がしますが(←旅は比喩ですよ。インドに修行に行ったとかじゃないです。笑)、ふりかえれば、どんなに分厚い本を書いたとて、今は大した価値には感じません。もちろん、愛しい日々であったには違いありませんが。
情熱と苦悩
過ぎ去ったものは、取り戻せない。全く同じ雲が、二度と現れないように、全く同じ感覚になるのは不可能なのだと、かつて夢見本を著した終わりの方に書いた覚えがあります。
そう、三十代後半のその頃には、この当たり前のことは、冷静にわかってはいました。それでも、私の心は、あの愛、あの多幸感を求めるのがやめられませんでした。
旅の途上、偶然から、素晴らしい師になる方に出会いもしました。当時の私より、十近くお若い女性で、10カ国程度の日常会話ができるマルチリンガルの才媛の方でした。とある国の重責のある役職に就かれていたこともある人なので、詳しいことはお話しできませんが、ノンデュアリティについて、深い理解と認識をお持ちで、彼女によるダイレクトパスという手法で忍耐強く付き合っていただいたおかげで、世界(と自分)の幻想性を見破るというところを、淡々と体感して理解するという体験もしました。(まるっきり彼女の趣味というか、善意でやってくださったことで、なぜか彼女は私から一円も受け取りませんでした。日記を繰ると、2015年のことです。)
こんなふうに、少しずつ、現実というもののベールが剥がれる瞬間が訪れるものの、私の「どうしても あれ を取り戻したい。知りたい知りたい!」の渇望が、しばらくすると頭をもたげてきます。
知らずに死ねるかー! と。😅
いつも脳内は、あの体感を呼び戻そうとするシミュレーションが繰り返されていました。私の「頭」は、なかなか私を休めてはくれません。一瞬、本質を垣間見る瞬間は、たびたび訪れるものの、あたりまえですが、それを留めておくことなどできません。そもそも、同じ雲は流れないという、あたりまえのことは理解しているはずなのに、万に一つの望みを賭けて、私の頭は寝ても覚めても、そのことばかりでした。
気づきの瞬間
先日、夜中二時のこと。YOUTUBEを聴いていたとき、私は妙な気分に覆われました。気づきというより、あたりまえのことをあたりまえとして知ったという感じです。
今までの私は、「気づき→頭脳で考える」パターンを持っていました。たとえばですが、前話でお話ししたように、私自身が持っている「欠乏感」の投影として、欠乏感のある世界を体験しているのだ……という「気づき」が起こったとします。次は、その気づきを元に「欠乏感を無くすためには、どうすればいいか?」というやり方を探るようになり、「頭」で、ああでもない、こうでもないと考えあぐねるというパターンです。
一見、まともなように見えるかもしれませんが、「テーブルに汚れを見つけたから、拭き取ろう」のように、心のことの多くは、頭で解決できるほど、簡単ではありません。
慣れ親しんだ、このパターンから、究極の気づきである「至福感覚」を呼び覚まそうとしていて、なかなかうまくいかず、長いこと苦しんでいたのですね。このやり方はうまくいかないとわかっているのに、どうしても、気づきを「頭」で理解しようとするクセが止まなかったのです。
それが、この夜、このパターンを持っている「自分・私・頭」って何? と、急に、そこに、光が当たったような感覚になりました。
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あれ?「自分・私」って、何か気づいたことを、自力で何とかできるような、才覚なんてあるんかな?(何年もずっと無理やん)
知りたい知りたいと思っている「私」に、「私」が振り回されるほどの価値あるの?(「私」が勝手に悩んでるだけやん)
「頭」に理解させようなんて、そもそも無理ゲーちゃう?(うん、まじめに無理)
次から次へと数珠つなぎに、絡まっていた思考がほぐれてきました。
すると「頭で理解しなくっちゃ、あの至福感が取り戻せない=本当の幸せではない」と勝手に思い込んで、だから、何がなんでも頭で理解したい、知りたい知りたい…との熱望🔥 に変わっていたのだ、とわかったと同時に、「頭で理解することと、幸せを感じることは、全く関係ない」という、このあたりまえのことが突然に理解できたのです。
そう、私が「勝手に」思い込んでいただけだったのです。
ずっとあったもの
(そりゃそうやん。一切、関係ないやん。ついでに、理解せんでも、愛であることができる。理解せんでも、豊かであることができる!)
もう、あるやん。はじめから、ずっと、あるやん。愛も幸せも豊かさも、ずっとあったやん。😲
そもそも全部あるのに、頭がガタガタ(あかんあかん、それちゃうちゃう)と、うるさく言っていただけだった……ということが見えてしまい、もう、頭脳で知る必要がなくなった、いや、最初から頭脳で知る必要なんかなかった……と放心し、きつい肩こりが一気に緩んだ感じになりました。
自分が、頭で「まだまだわかっていない」って、自分にうるさく言っていたから、その投影をして(≒投影をするような言動をして)、ダメ出しをしてくれる人を都度出現させ、また、自分で「そんなんじゃダメダメ」と、お尻を叩くっちゅうループに入り苦しんでいただけだったのです。
おそらく「頭」ってのは、一生、わかっていない状態が続くことでしょう。なぜなら、頭に、「これ」が「わかる」機能がないからです。というか、頭を頭たらしめていたのが、エゴに他ならず、それは、非常にあてにならないものだからです。
そんなエゴ=頭に、耳を傾け、振り回される必要があるのでしょうか?
そっち(エゴ)は、ただ言わせておけばよく、私のできることは、愛であること(=私であること)の方で、それは、頭脳が理解していてもしていなくても、努力の必要もなく、フツウの状態そのものであったのです。
だから、少女時代のあの頃のようにキラキラしていてもいなくても、そんなふうに見えていてもいなくても、嫌いな人がいてもいなくても、まったく関係なく、私は、今、この時を、愛を選ぶこともできるし、幸せであることもできるのです。
それと全く同じ理由で、たとえばお金があってもなくても、豊かな気分で過ごすことは、実は問題なくできること。「預金がない」と「貧しい」を紐づけているから、そこに苦悩が生じるわけで、本質的に、豊かという状態は、いつも、ここに、(現象がどうであれ)、愛と共に「あった」のです。
何にも影響されることなく、いつも「在る」のに、ないない、ちゃうちゃう、と、ガタガタほざいているのが、エゴっていうか、消えかけの小さな自我の悪あがき以外何者でもなかったんですね。
こんな心理状態になって、まだ日が浅いので、今後、どうなるかはさっぱりわかりませんが、これからは、ますます、自分の頭脳の方は当てにせず、その瞬間に出現しては消えていく「これ」を捉えて、「ここ」に控えていきたいと思っています。何があるかわからない とは、なんちゅーエキサイティング♪なことでしょう(笑)。
そんなわけで、五月号は、ますますおもろくなるはず😁。どうぞ、お楽しみください。
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